過去の謎
のこり 10 回
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日曜の朝、男は菓子折りを持って隣家を訪ね、深々と頭を下げて詫びた。男はこの町に十年住んでいるが、隣人に迷惑をかけた覚えは何一つなく、実際、隣人も男に対して怒っていることなど何もなかった。それでも隣人は菓子折りを受け取り、二人は穏やかな空気のまま別れた。いったい何が起きた?

平日の朝、満員の通勤電車。スーツ姿の男は、隣に立っていた見ず知らずの人物の腕を突然つかんだ。相手は振りほどこうとはせず、二人は次の駅で一緒にホームへ降りた。そこは男が降りる予定のない駅だった。しかし男は駅員室にも改札にも向かわず、ホームのベンチに腰を下ろすと、相手に向かって深々と頭を下げた。その後、男は次々にやって来る電車を何本もただ見送った。いったい何が起きた?

白昼、動物園の園路にトラが現れた。男は同僚たちと共に、網や盾を手にトラをじわじわと追い詰めていき、ついに麻酔銃を構えた。次の瞬間、トラはその場に倒れ込んだ。ところが男たちは、倒れたトラに手当てをするどころか、その肩をぽんぽんと叩き「お疲れさま」と声をかけた。いったいなぜ?

正月、祖父は孫の家にやって来ると、長年大切にしてきた宝物を、孫の目の前であげてみせた。孫は大喜びし、時間を忘れて夢中になった。ところが夕方になると、祖父はその宝物をさっさとしまい込み、自分の家へ持って帰ってしまった。それでも孫は、まったく不満そうではなかった。いったい何が起きたのか?

平日の朝、スーツ姿の男が一台の大型バスの前で列に並んでいた。順番が来て乗り込んだ男は、座席に着くこともなく車内でシャツを脱ぎ、ほんの数分で降りてきた。バスはその間ずっと、そしてその後も、一度もその場から動かなかった。男はバスの中で何をしていたのか?

土曜の天気予報が「雨」から「快晴」に変わったのを見て、男は思わず深いため息をついた。男に行楽の予定はなく、むしろ土曜は一日、冷房の効いた快適な場所に座って過ごすつもりだった。庭いじりや家庭菜園の趣味もない。なぜ男は晴れの予報にがっかりしたのだろうか?

女は、10年以上付き合ってきた相手に、電話で別れを切り出した。相手に大きな不満があったわけではない。電話口で相手は必死に女を引き止め、「今よりずっと良い条件を用意する」とまで言ったが、女の決心は変わらなかった。実はこの相手、女の夫や娘とも長年の付き合いだったのだが、家族そろって同じ日に別れた。この話を聞いた女の同僚は、女を責めるどころか「うちも別れようかなあ」とつぶやいた。女は何をしたのだろうか?

イベント会場の撤収アルバイト初日。パイプ椅子を運んでいた男に、先輩スタッフが「巻いて!」と鋭く声をかけた。男はすぐに床を這うケーブルへ向かい、手早く、しかも見事な手つきで美しく巻き上げた。作業には何のミスもなかったのに、それを見た先輩はさらに苛立った顔になった。なぜ?

几帳面な母は、いつも一週間分の献立を決めてから買い物に行く。ところがここ数日、夕食はあり合わせを寄せ集めたようなちぐはぐな料理ばかりだ。冷蔵庫の中身はどんどん減っていくのに、母は一向に買い物に行こうとしない。家計が苦しいわけでも、冷蔵庫が壊れたわけでもない。先週末には庭に来年咲く花の球根まで植えていた。なぜ母は買い物に行かないのだろう?

スーパーの飲料売り場で、制服を着た男が手際よく棚に商品を並べていた。買い物中の女が「麦茶のティーバッグはどこにありますか」と尋ねると、男は「すみません、わからないんです」と申し訳なさそうに頭を下げた。男がこの店の棚に商品を並べるようになって、もう何年にもなる。それでも男は売り場のことをほとんど知らないし、店側もそれをまったく問題にしていない。いったい何が起きている?

日曜日の朝、男は何の勉強もしないまま近所の学校へ向かった。静かな体育館で紙を受け取り、仕切りのついた机で備え付けの鉛筆を握る。男が書いたのは、たった一人の人物のフルネームだけ。自分の名前は最後まで一文字も書かずにその紙を提出したが、誰にも咎められることはなく、男は晴れやかな顔で帰っていった。なぜ自分の名前を書かなくても問題なかったのだろうか?

四月のある朝、スーツ姿の夫婦は、体育館の保護者席からわが子の晴れ姿に目を細め、盛んにシャッターを切っていた。ところが式の途中、二人はそっと席を立つと、車に飛び乗ってその場を走り去った。三十分後、夫婦は別の建物の中で、やはりわが子の晴れ姿に目を細め、シャッターを切っていた。夫婦は何をしているのだろう?

九月とは思えない真夏日。女は額に汗をにじませながら、部屋のまんなかにこたつを据え、ソファに厚手のブランケットを掛け、床には毛足の長いラグを敷いた。部屋を完璧な冬仕様に仕上げた女だが、自宅のこたつは押し入れに仕舞い込んだまま、出す気配すらない。いったい女は何をしているのだろう?

連日の仕事でくたくたの男は、一刻も早く家に帰って眠りたかった。乗っている電車が自宅の最寄り駅に到着し、ドアが開き、やがて閉まった。その一部始終を男ははっきりと見届けていたのに、降りようとすらせず、電車はそのまま発車した。眠っていたわけでも、満員で身動きが取れなかったわけでもない。いったいなぜ?

マラソン大会のコース沿いで、スタッフが拡声器で叫んでいた。「ラスト1キロ! ゴールはもう目の前です!」。その声を聞いた男は、ペースを上げるどころか道の脇で立ち止まり、のんびりストレッチをして補給食まで食べ始めた。男にリタイアするつもりはまったくなく、実際そのあとも元気に走り続けた。男はなぜ、ゴール目前でそんな悠長なことをしたのだろうか?

深夜二時。女は薄暗い建物の中をひとり歩き、部屋の扉を次々と開けては、眠っている大人たちの顔を小さな明かりでそっと照らして回った。部屋で眠っているのは、女の家族でも友人でもない。それなのに誰一人として彼女を咎めず、翌朝には、照らされた当人から礼を言われることさえあった。女は何をしていたのか?

家族がみんな寝静まった、暗く静かな家。女はひとり台所に立ち、卵焼きやから揚げを次々と作っていく。しかし出来上がった熱々の料理に、女は自分では一口も手をつけず、誰かを起こして食べさせるでもなく、うちわで扇いでせっせと冷まし始めた。冷めた料理を冷蔵庫にしまう様子もない。女はいったい何をしているのだろうか?

深夜、女は駅に向かって全力で走っていた。終電の発車まで、もう一分もない。ホームに駆け込んだ直後、目の前でドアが閉まり、終電は走り去ってしまった。ところが女はそれを見届けると、満足げな表情で改札を出て、そのまま歩いて家に帰った。いったいなぜ?

金曜の夜、満員の通勤電車。男はドア脇の隅に立つと壁に両腕を突っ張り、自分と壁の隙間にいる相手を、押し寄せる人波から必死に守り続けた。電車が揺れるたびに背中へ他人の体重がのしかかったが、男は歯を食いしばり、最後まで相手に指一本触れさせなかった。その夜、男の家の食卓では、幼い娘が歓声を上げたという。いったい何が起きていた?

その夏、真っ黒に日焼けした男は、ほぼ毎日朝から夕方まで海水浴場に通っていた。泳ぎには誰よりも自信があるのに、ひと夏で彼が海に入ったのはたった一度だけ。しかもその時、浜辺の人々は悲鳴を上げていた。いったい何が起きたのか?

花子は大勢が見守る中、長い柄のブラシで一心不乱に床をこすっていた。汗だくになるほど懸命にこすり続けたのに、床は少しも綺麗にならない。それどころか、こすったばかりの場所を仲間が平然と踏んでいくが、花子は文句ひとつ言わず、むしろ満足げだった。彼女は何をしていたのだろう?

日曜の昼下がり、ユカがキッチンを磨いていると、見知らぬ親子が玄関から入ってきた。親子はユカに断りもなくクローゼットの中を覗き、寝室のベッドに腰掛けたりし始めた。しかしユカは怒るどころか、笑顔で冷たい麦茶を差し出した。親子は30分ほど家じゅうを見て回ると、そのまま帰っていったが、ユカは引き止めもせず、また笑顔で見送った。いったいなぜ?

タカシとケンジは同期入社の親友で、食の好みもそっくり。行きつけの定食屋では、二人とも唐揚げ定食が大好物だ。しかし二人が一緒に昼食をとるとき、同じ料理を注文することは決してなく、おかずを一口だけ分け合うこともない。仲が悪いわけでも、ケチなわけでも、体質や好き嫌いの問題でもない。いったいなぜ?

男は駅の改札を出ると、スマホの地図アプリを開いた。画面と道路標識を何度も見比べ、角を曲がるたびに立ち止まり、ずいぶん時間をかけて一棟のビルにたどり着いた。男はそのビルの中の会社に勤めており、この駅から会社までの道は毎日通勤で歩いている。もう何年も、だ。その日の男は健康そのもので、酒に酔ってもいなかった。いったいなぜ地図が必要だったのだろう?

就職を機に一人暮らしを始めることになった女は、荷造りの手を止めて母に言った。「もちろん、あの子も連れて行くよ。小さい頃からずっと一緒だったんだから」。娘の新生活を誰よりも楽しみにしていた母は、その一言を聞いた途端に血相を変え、「その子だけは置いていきなさい」と譲らなかった。引っ越し先はペットの飼育が許可された物件である。なぜ母は反対したのか?

結婚30年。妻には何年も前から夫に訴え続けてきたことがあったが、夫はいつも聞き流してきた。今朝、妻が『とうとう出したから』と告げると、夫は血相を変え、パジャマのまま家を飛び出していった。何が起きたのだろう?

父には何年も続けている夜の習慣がある。毎晩、居間で必ず二、三本干すのだ。ところが翌朝になると、母はそれを袋にまとめて捨ててしまう。それでも父は文句ひとつ言わず、その夜もまた干す。梅雨に入って連日雨が続いても、この習慣が途切れたことは一度もない。いったい何が起きている?

コンビニでアルバイトをしている私の店には、ここひと月ほど、毎日昼の12時すぎになると決まって男性客がやって来て、弁当を買っていく。今日も同じ時刻、いつもと同じように現れた男性客に、私は思い切って「毎日ありがとうございます」と声をかけた。すると男は不思議そうな顔で「この店に来たのは今日が初めてですよ」と言った。男は嘘をついていないし、私をからかったわけでもない。言われてみれば、彼の顔をこんなに正面から見たのは初めてのような気もした。いったい何が起きていたのだろう?

平日の昼下がりの市役所。スーツ姿の男が番号札を取って順番を待ち、窓口に死亡届を差し出した。男が今月この役所に死亡届を出しに来るのは、これで4回目だ。しかし窓口の職員は驚きも同情もせず、にこやかに「いつもお疲れさまです」と言い、男も「どうも。また来ますね」と軽く返して帰っていった。いったいなぜ?

ある晩の夕食。家族三人の食卓は妙に静かだった。食事の途中、父が「お茶を取ってくれ」と言った瞬間、母と娘は同時に残念そうな声を上げ、言った父自身も慌てて口を押さえ、ひどく悔しがった。頼みごとはごく普通の一言だったのに、いったいなぜ?

早朝の駅。ホームの端に立ったタクミは、入ってくる電車の運転席に向かって精いっぱい手を振った。窓越しに白い手袋の手が小さく振り返され、タクミは嬉しくてたまらなかった。彼はその電車には乗らず、見えなくなるまで見送ると、改札を出て行った。同じ駅の同じホームに、電車がゆっくりとすべり込んでくる。運転席で白い手袋の手を振っているのは、タクミだった。ホームの端では、誰かが精いっぱい手を振っている。電車に乗らずに改札を出て行ったはずのタクミが、なぜ運転席にいるのだろう?